2018年年頭のご挨拶
あけましておめでとうございます。
昨年まではブログサボっていましたが、今年は真面目に執筆しようと思っています。
SNSは手軽ですが、衝動的に書き散らしてしまいやすく、後から振り返ることも少ないです。そうではなく、キチンと考え抜いて書き、再考に足る文章が書ければ、と思っています。
2018年の抱負ですが、何事も控え目に、謙虚に、心静かに過ごしたいと思っております。
そして、アウトプットよりインプットの一年とします。
具体的には、下記の4点を行動目標とします。
(1j質素倹約
日常生活はよりシンプルにしていきます。
友人の良き影響を受け、久し振りに料理の楽しさを思い出しました。自炊により料理の味づくりを高めたいです。料理は一汁一菜を基本とし、粗食ながら食材や調味料は可能な限り良質のものを使いたいです。
質素の贅沢さを実感できる一年にしたいです。
その上で、時々はプロの一流の料理を味わいたい。普段は質素倹約し、渇望感をしっかり噛みしめることが、美味しさをより高めてくれるはず。
(2)自己学習
資格試験の勉強をすっかりサボっていたのですが、今年は合格にこだわります。
キャリアコンサルタント試験に合格します。このブログでも勉強について書いていきたい。
(3)健康づくり
健康づくりのメソッドをより一層学び、咀嚼し、深めていきたいです。
(4)ぶらり旅
県内、関西、九州などをぶらり旅し、土地の人、味、芸術に触れていきます。
今年インプットした内容をもとに、来年以降マネタイズについても考察していきます。
最後になりましたが、小生にいつも良き刺激を頂いている友人そしてご家族にとって、本年がますます良き年でありますよう、心より祈念申し上げます。
ブログ復活しました。
ブログ復活しました。
日々のささやかな愉しみについて、備忘録も兼ねて綴っていきたいと思います。
まずは今日の晩ごはんについて。
秋も深まってきたら、僕は湯豆腐が愛おしくなります。
最近はもっぱら温泉湯豆腐。近所のスーパーで嬉野温泉平川屋の豆腐と調理水が売っているからです。調理水を入れると豆腐がトロトロに溶けて美味しい。
豚肉とネギを加えるとボリューム満点です。
酒は雁木の純米無濾過生原酒。ぐい呑に三杯、これでちょうどいいです。
しめは雑炊。これで気持ちもお腹も満たされました。
京都の古書店「アスタルテ書房」の思い出
金子國義画伯とは、一度お会いしたことがある。
京都新聞|私の好きな、ときどき嫌いな京・近江 - 画家 金子國義さん
20歳の頃、京都の三条御幸町辺りのマンションの一室にある古書店「アスタルテ書房」で古書をあさっていたある日のこと。
「アスタルテ書房」のご主人・佐々木一彌さんは、作家・澁澤龍彦やフランス文学者・生田耕作、そして金子画伯と交流が深かった趣味人。
店内には小唄のBGMが流れ、興が乗ると自ら三味線をつまびくという、独自のテイストに貫かれたサロンだった。
そこに金子画伯が登場。
ロマンスグレイが印象的で、ダンディでアーティスティックな雰囲気に、圧倒された。
その時は他にお客がいなかったので、金子画伯による澁澤龍彦の思い出に聞き惚れた。
至福の時間だった。
その時、金子画伯の挿画の入った、ジョルジュ・バタイユ著、生田耕作訳『マダム・エドワルダ』にサインをして頂いたのだが、度重なる引っ越しのどこかのタイミングで、なくなっていた。
惜しい。
現在古書店で購入すると、4~5,000円はするそうだ(笑)
「あたしのぼろぎれが見たい?」
両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女のほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は片脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろぎれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛤。
おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりかね」
「ほらね。あたしは《神様》よ・・・」
「おれは気でも狂ったのか・・・」
「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」
ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳『マダム・エドワルダ』(角川文庫、1976)
僕がまだ若かった頃、エロティシズムや異端の思想にこだわりをもっていた。
今は全くなくなったという訳ではないのだが、深い興味はない。
具体的には、文学ならマルキ・ド・サドとかバタイユとか澁澤龍彦とか、映画ならパゾリーニとかベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』とか神代辰巳とかもろもろ。
背徳のエロティシズムに思想の匂いを嗅ぎつけ、深い意味を求めて読み解こうとしていた。
例えばエドワルダのいう「《神様》」って何だろう?とか、なぜエドワルダは「見なくちゃ駄目。見て!」と言ったのか?とか。
今考えると、哲学者のバタイユならではの深い意味があるのかも知れないが、ポルノグラフィに深い意味を求めて読み解こうと思っていたのは、当時の僕がエロティシズムに過大な期待をしていたからに他ならないだろう。
とはいえ、バタイユのエロティシズム論には深みがある。
「エロティシズムは死にまで至る生の称揚である」とはバタイユの名言である。
岸田秀流に言えば、人間は「本能」が壊れた代わりにエロティシズムを持っている動物だ。
今の僕は、エロティシズムに過大な期待も、過小評価もしていない。
「本能」が壊れた人間に必要欠くべからざる人生の一部である。
金子國義画伯も、アスタルテ書房の佐々木さんも、昨年お亡くなりになった。
僕の青春の1頁。懐かしい思い出がまた一つ、去っていく。
甘酸っぱい記憶を僕に残して。
大好きなブログ ~「うちこのヨガ日記」 ~
最近、ヨーガをはじめました。
いいですね。ヨーガ。
呼吸法やアーサナをすることで、気持ちが落ち着きます。
ヨーガは、今までもはじめては挫折し、またはじめては挫折し・・・の繰り返しでした。永遠の初心者です。
「趣味は三日坊主」というほど飽きっぽい性格なのですが、今回はしばらく続けることができそうです。
さて、ヨーガに興味を持つきっかけの一つとなったブログがあります。
ヨガ業界の方なら「知る人ぞ知る」ブログらしいですが、僕は業界人ではないので知りませんでした。
とにかく僕にはめちゃめちゃ興味深かったです。
ヨーガの先生のブログなので、感覚的表現や神秘的表現に満ちているのかと思いきや・・・
めちゃめちゃロジカル。
本の紹介のコメントが鋭い。
それでいて、自己のロジックの中に閉じず、アナロジーな表現を駆使し鮮やかなイメージを喚起してくれるところに、特に唸らされます。
僕が唸ったのは、例えばこんな表現にです。
以下は、全体の中では目立たないけど、とても貴重なコメントと思いました。
修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。
どうとでもとれる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。
「どうとでもとれる玉虫色の解釈」への指摘。「なんとなくシャンティ」って言っているだけの状態はリアライゼーションの対極にあり、プラクティカルではないから身に付くと思えないのです。「あのときの、あのシャンティ」「どこかで感じたことのある、いま、このシャンティ」を見つめないと。ここは、あえて捉えにいくところです。これと執着の区別がつかないと、「瞑想ってよくわからない」ということになると思う。というのをわたしも断定的に書いてみた。(「〔本の紹介〕修業論 内田樹著」)
もう、「イイネ」でも「ガッテン」でも何でもいいけど、ボタンを「16連射」したい欲望に駆られるほど、素敵な必殺フレーズの連打。
「なんとなくシャンティ」は「プラクティカルではない」。はたまた「これと執着の区別がつかないと、『瞑想ってよくわからない』」など、うちこ師の必殺フレーズに萌えます♪
そ~なんだよな。若手の頃って「どうとでもとれる玉虫色の解釈」をする方が良いって思ってたふしがある。自分の考えはあっても、長いものには巻かれろ式にエラい人の尻馬に乗っといた方が、利口だって思ってたふしもある。
でもそ~じゃないんだなあ。。。
「私はこう解釈した」ってことを、Show The Flagじゃないけど、ハッキリ意思表示できる自分であることって、すごく大切。
だからって、いつでもどんな時でもShow The Flagしてたら身が持たない。
じゃなくて、その時点で適切だと思った解釈を断定した上で、Show The Flagしたり、できるけどあえてしなかったり、臨機応変に使い分けることも大切。
それにしても、解釈を断定することと、執着との差異。これが分かるまで僕は20年かかりました(笑)
それまでは、いくら集中しようと頑張っても、雑念妄念が迸りまくっていました。その理由が、うちこ師のブログを読んでやっとわかった次第です。
他にも唸ったフレーズ連打だけど、特に唸りまくったフレーズと言えば。
もうひとつ、
「鍛える」というのはハードディスクの容量を増やすことであり、「潜在的な能力を開花させる」というのはOSをヴァージョンアップすることである。
という説明も、たまらん~。ヨーガではこれに加えてviveka(識別)の能力が開花するというのが「いいCPU積んでる」という感覚に近いです。(「〔本の紹介〕修業論 内田樹著」)
鍛えるっていうと、ついついハードディスクの容量を増やすがごとく、量にこだわってしまいがち。でも、修業ってのはそれだけじゃない。
CPUの交換(CeleronをPentiumに?)とか、メモリの増設(4GBを8GBへ?16GBへ?)とか 、はたまたOSのヴァージョンアップとか(Windows7をWin10へ?)とか・・・
鍛えれば鍛えただけプロセスがすべて身になると限らないのが、修業なんですよね。
鍛錬も大事だけど、ポリシーの正しさや視点の変化や心の持ちようも、とても大事。
関係あるか分からないけど、清原はハードディスクの容量を増やすことばかりにこだわりすぎて、その他の修業に向ける視点が欠落してたのかな?と思ったりもしました。
「額縁」に救われ、「額縁」に縛られる の章も、とても大切なことを語っている内容でした。
「気が狂う」ことを回避している代償を、私たちは別のかたちで支払ってもいる。
森博嗣さんが同じことを語るとちょっとおしゃれな感じがするのに、内田樹さんが書くと汗臭くヨーガっぽい感じになるのはなぜだろう。親近感沸くなぁもう(笑)。
ヨーガではこれを abhinivesha (つながりから離れることへの恐怖)というのだけど、事例が「肉体と魂が離れること=死の恐怖」とされることが多く、そのせいで深い話題に入っていけないことがほとんど。ヨーガも仏教も、「正常と言われている額縁から離れて見ること」に有効な技術として瞑想がある。(「〔本の紹介〕修業論 内田樹著」)
僕は産業カウンセラーの勉強をしたので、内田先生のいう「額縁」の意味はスンナリ分かります。
ここでいう「額縁」は、カウンセリング用語でいう「準拠枠」(frame of reference)のことです。そういえば額縁も英語で言えば"frame"ですね。
平木典子先生の著書より「準拠枠」の解説を引用します。
「準拠枠(問題枠)」というのは、少々わかりにくい言葉である。英語の frame of reference という言葉を訳したものだが、人間理解の基本となるので、この考え方の内容を理解してもらうため、あえて使うこととした。
人間は言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情を表現することができるが、表現したり、お互いを理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。
たとえば、気分が悪いときとかおなかが痛いとき、言葉のわからない赤ん坊は、全部「泣く」という信号で表現する。赤ん坊は、表現の拠りどころとなるものをそれほど多く持っていないからである。「痛さ」とか「不快な感じ」とかのさまざまな細かい感じを表現することができるようになるまでには、実は、人間はたくさんのことを体験し、その体験に匹敵する言葉を学び、体験と言葉を結びつけて表現している。それによって、たとえば、おなかの痛さも「シクシク痛む」とか「キリキリ痛む」とか細かく表現できるようになる。
いいかえれば、私たちの内面には体験を区別し、照らし合わせる照合枠のようなものが積み重ねられ、それが言葉になり、表現になっている。言葉に照合されるさまざまな体験がいろいろな枠組みをつくっており、それを使って、自分を表現し、相手に理解してもらおうとするのである。
(中略)
そこで、カウンセリングでは、クライエントが照合枠とか準拠枠、または問題枠で意味していることの理解を重視する。カウンセラーは相手が何と言っているかではなくて、何を言わんとしているかが理解できなければならない。逆にいうと、来談者の言った言葉を自分勝手に受け止めて、その人を理解した気になってはいけないのである。(平木典子『カウンセリングの話』朝日新聞出版、2004)
産業カウンセラーの講座では、指導者に「カウンセラーの準拠枠を押しつけている」とよく指摘され、夜はしばしば涙で枕を濡らしたものでした。
意識して準拠枠を外そうとしても、なかなか外れませんでした。
準拠枠を外すことの困難さは、準拠枠こそが自分の拠りどころであり、アイデンティティだからなんだと思います。
だからカウンセラーは、準拠枠を外そうとする前に、まず自分の拠りどころである準拠枠を意識し、相手の持っている準拠枠との違いを意識することが重要になりますね。
その一連のプロセスで、瞑想が大いに役に立つことは、うちこ師がおっしゃる通りですね。
うちこはよく職場で、コミュニケーションの場の構成展開や切り替えがおかしいときに、「もうここからは相手が主役になるところ。あなたが『それでは歌っていただきましょう~』とマイクを渡したあとの話。その歌がどうなろうが、案じてもしょうがないわけよ。でも歌っていただく前まではこっちでコントロールできるのだから、そのあとに『曲は、なになにです』とか、『今日も街でこれを口ずさむ人に出会いました』みたいにその前の装飾で工夫をしてください」というように、昔の歌番組司会の喩えを使う。
30代後半のOL仲間に「うちこさん、このシリアスな説教シーンで浜村淳のモノマネさりげなくいれれるのやめてください」と笑われたりするのですが(無意識にやってるみたい)、こういうことと本当に似ていると思う。(「コミュニケーションとヴィパッサナー~(「タントラへの道」より)」)
僕もシリアスな説教シーンで、ふと例え話を使うのが常套手段なので、「その例えウケる~♪」って笑われたことあります。
だから、うちこ師が浜村淳のモノマネさりげなく(無意識に)入れられるって状況、容易に想像できます。
「これだけじゃ食えないからこれもしています」という人がヨガ講師の人には多いと思うのだけど、たまに「会社員の頃、○○な生活に疑問を感じて(否定表現で)、ヨガの世界へ」などとプロフィールに書いている人がいて、普通に「サラリーマンを下に見ながら暮らしているのだろうか」と不思議に思う。美容師さんでもそうだけど、別の仕事をしていてその世界に入った人は、なんとなく会話のスタンスがオープンで居心地がよかったりする。ヨガの先生で素敵と思う人にも同じようなことを感じる。
何かを悪者にしないとヨガを始められなかった人からは、ヨガを習いたくないなぁ。(「コミュニケーションとヴィパッサナー~(「タントラへの道」より)」)
実は、当初このブログのタイトルを「サラリーマンをなめんなよ」にしようと思っていました。僕は、サラリーマンの仕事を誇りに思っています。会社の看板を背負って、自分の力や同僚の力を使ったり使わなかったりして、組織を動かして何かを成し遂げるって、すごくワクワクドキドキします!
それって、うちこ師の言葉を借用すれば、とってもヨガなことだと思うんです。
アーサナをしたり、呼吸法をしたり、瞑想をしたりするのもヨーガ。その結果、すごいポーズができたり、サマーディーの境地に至ることは、とても素晴らしいこと。
でも、ヨーガを続けた結果、仕事をするのがワクワクドキドキするようになった、ってのも大切なことだと思うんですよ。
何かを悪者にして、心にディストピアを作るのがヨーガの効用じゃない・・・
イヤなことがあっても動じない平常心。
また、合気道の塩田剛三さんの名文句のように、合気道の最強の技とは「自分を殺しに来た相手と友達になる」と言える感性。
ヨーガを通じてそんな力を育みたい。
僕はそう思います。
うちこ師のブログを読むことによる効用は、様々なイメージを心に喚起してくれることです。
今後も拝読します。そして、またこちらに感じたことを書きたいと思います。
ふとしたきっかけでお会いしたご本人も、清冽なオーラを感じる素敵な方でした。
旅館「洋々閣」 ~ 温故知新の美学 ~
世界的な椅子のコレクター・永井敬二氏は、九州・唐津の老舗旅館「洋々閣」女将・大河内はるみさんの従兄妹です。
唐津はかつて大陸との交易の拠点だった場所。太閤秀吉が遠く朝鮮半島を睨んだ肥前名護屋城も、唐津に所在します。
往時、朝鮮半島から連れてきた陶工には、この地で製作をした者も多くいました。
当時彼らが制作した陶器の中には「古唐津」として、現在まで名品として伝わるものもあります。
「洋々閣」は大正時代に建てられた伝統的な日本建築ですが、どこかモダンな雰囲気を感じるのは、椅子のコレクターとして知られるデザイナー・永井敬二氏のモダンな感覚によって改装されている部分もあるからでしょう。
改装を担当しているのは、永井敬二氏と親しい建築家・柿沼守利氏。
僕が「洋々閣」を知ったのは、料理や旅館のエッセイストとしても知られる京都在住の歯科医・柏井壽氏の著書によります。
もちろん、当時は永井敬二氏も柿沼守利氏も、知りませんでした。
以前「洋々閣」に宿泊したときは、玄関横のラウンジの居心地が良くて、入浴後ずっと飲み物を片手に、読書を続けました。
ラウンジに置かれている椅子は、剣持勇氏のラタンチェア。
「洋々閣」のラウンジが、永井敬二氏と柿沼守利氏のモダンな美意識に貫かれていることが、ここでも分かります。
「洋々閣」と言えば、もちろん「隆太窯」の中里隆、太亀父子の器を味わう宿であり、主人夫婦、支配人、そして熟達の仲居さんのホスピタリティに身を委ねる宿です。
僕が泊まった部屋には、能書家としても知られた維新の元勲・「蒼海」副島種臣伯の達筆の書が飾られており、幕末・明治の肥前の歴史を偲ぶことができました。
と思いきや、廊下には池波正太郎氏に親炙したことで知られるエッセイスト・「鉢山亭」佐藤隆介氏の書が。
重すぎず、軽すぎず。
ここでも重厚な和と、モダンの絶妙なバランスが心地よかったです。
佇まいも、ホスピタリティも、ただ旧きを守るだけではなく、新陳代謝し、モダンな風を吹き込むことにより、その価値を永く守り続けることができるのだと思います。
「自己受容」と心理学 ~ 自分を許せば、他人も許せるようになる ~
前回のブログで「自己受容」について書きましたが、引き続き「自己受容」について、今回は切り口を変えて書いてみます。
カウンセリング心理学の第一人者として知られる國分康孝先生の名著『カウンセリングの技法』(誠信書房、1979)
久しぶりに読んだけど、目から鱗が落ちまくりました。
「國分節」としか言えない語り口で、カウンセリングの真髄を突く言葉の数々に、ただただ唸らされます。
今後もしばらく熟読玩味しますね。
人好きの人間とは、自分を好いている人間である。自己嫌悪の強い人は他者嫌悪も強い。人の好き嫌いの激しい人は自分への好き嫌いも激しいはずである。
確かに、他人を嫌いやすい人は、実は深層心理で自分のことも嫌いなのかも知れません。
自分を好くとは自己受容のことである。あるがままの自分を受け入れることである。たとえば、ケチな自分をとがめているとケチな相手もとがめたくなる。ケチな自分を許すとケチな相手をも許せるようになる。
「ケチな自分を許すとケチな相手をも許せるようになる」ってベランメエが、國分先生の真骨頂ですね。完璧な人間なんているわけはない。ケチな人間の集団が人間社会だ、って諦観から、人類愛が始まるような気がします。
心の中で色情を起こしたものは姦淫したのと同じことだと考えるのは、自己受容の反対である。自己へのとがめがある。自己受容とは色情を起こして何が悪いか、と色情を起こした自分を認めてやることである。そのあと、しかしこれは表現(姦淫)してはまずいからと抑えるのである。そこには罪障感がない。それが自己受容である。人好きとは、このような自己受容の結果なのである。つまり、自分に対する態度と人に対する態度ととは相関があるということである。
「自己受容とは色情を起こして何が悪いか、と色情を起こした自分を認めてやることである。そのあと、しかしこれは表現(姦淫)してはまずいからと抑えるのである」という「國分節」には、思わず笑みがこぼれてしまいました。
例えば、好みの異性を想像して「モノにしたい!」と思ったり、イヤな奴を思い出して「死ねばいいのに!」って思ったりする突発的な感情を、いちいち責め苛んでいたら大変です。
心で思っても、実際に行動を起こさなければ良いのだ、と割り切ることが大事だと思います。
自己受容とは、自身の劣等感に向き合い、それを許せるようになることです。
不完全な自分を必要以上に責めなくても良いでしょう。
不完全な他人を必要以上に責めなくても良いでしょう。
人間社会は、不完全な人間の集合体です。
時に憎しみ合い、時に傷つけあい、時に許し合い、みんな生きているのでしょうね。
依存から自己受容へ ~ 野口嘉則氏のブログより ~
先日、プロコーチの野口嘉則氏のブログより「高揚感をもたらすものへ依存したくなる心理」という記事を読み、気付きを得ました。
そして、自分が最近模索していたことが、野口氏の記事に書いてある内容に即していたと、思いました。
「高揚感をもたらすものへ依存したくなる心理」
僕の心もかつてそうでした。
遊びを「楽しむ」ではなく、その「高揚感」に依存し、自らの内面と向き合うのを避けていました。
「高揚感をもたらすもの」は祝祭であり、非日常の営みです。しかし、それを「日常」にすることを目指すと、それは依存症かも知れないと思いました。
覚醒剤や大麻は、
高揚感や多幸感をもたらすのだそうですが、
これらへの依存状態になってしまう人が、
なぜ成功した芸能人に多いのでしょうか。
そして、
違法薬物に手を出すことはないにしても、
高揚感をもたらすものへの依存状態に
なってしまうケースは、
僕たちの周りにもよく見られますし、
僕たち自身も、大なり小なり、
そのリスクを抱えています。
僕はある日、非日常の営みを「日常」にするのではなく、日常を「ワクワクドキドキ」させようと心に決めました。
「いまの自分は「高揚感」依存症だ。依存を絶たなければ、心の平安を得ることができない」
祝祭を素直に楽しめる人は、楽しめば良いと思います。
けれど、自分はそうではない・・・
「高揚感」に浸った翌日の落ち込みを重ねる度に、言いようのないモヤモヤが心に積み重なっていました。そんな精神の乱高下を繰り返す自分は、祝祭を楽しめていないと思いました。
漠然とした不安。
恐れ。
不確かな気持ち。
現実逃避。
寂しさ。
神経過敏。
失意。
絶望。
他人を気にしすぎる。
自分は、それらの感情をコントロールできず、感情のとりこになっている・・・
言葉にできないもやもやは、不良債権のように自分の心を苛み、より強い「高揚感」を求めるという悪循環をもたらしました。
マイケル(・ジャクソン)やエルビス(・プレスリー)やマリリン・モンローの場合は、
薬物依存でしたが、
万能感やハイテンション(高揚感)を維持しようとする
心理から、
薬物の他に、次のようなものへの依存症になってしまう
場合があるわけです。
・恋愛依存
(家庭をもっていながら不倫をやめられない、等)
・セックス依存
・過度の飲酒(=アルコール依存)
・ギャンブル依存
・浪費癖(買い物依存)
・仕事への過度の没頭(=ワーカホリック)
・自分が賞賛を浴びることへの依存
これらのものに依存し、
万能感や高揚感を維持することによって、
思いどおりにならない現実や自分の弱さに直面するのを
避けているわけです。
だから、「つまらない」日常を淡々と生きないように、仕事にド真剣に、集中して取り組もうと決めました。
「俺が面白くしないで、誰がする?」って気概を持って、取り組もうと決めました。
そのように意識を変えると、やがて「つまらない」はずの日常に、トキメキが産まれました。
結果は・・・、問いません。
真摯に取り組む。そして、そのプロセスと結果を、自己評価抜きに、ただ見つめる。
それだけで良いと思っています。
そして、そのような依存状態にならないためには、
思いどおりにならない現実や
自らの弱さ・不完全さを
十分に受け容れることができるだけの
しっかりした心の器(精神的な基盤)を
確立することが大切です。
万能でない自分、
失敗もする自分、
かっこ悪いところもある自分 なども含めて、
等身大の自分をありのままに受け容れるだけの
「自己受容力」を養う必要があるのです。
もちろん、非日常の営みは祝祭だから、日常を忘れて楽しむよう心がけています。
遊びで「高揚感」を味わうこと自体は、悪いことではないからです。
でも、それは日常を味わい尽くすからこその、非日常ですし祝祭だと思います。
非日常の祝祭は人生のスパイス。
祝祭のために日常がある、という考えを捨てたら、なぜか気持ちが楽になりました。
日曜日の夜に感じていた不安や焦りが消えました。
それは、僕にとっての「コペルニクス的転回」でした。