ポンちゃんの「本好きのささやかな愉しみ」

日々のささやかな愉しみの備忘録です。

ドラッカーへのラブレター(その1) ~ ラブストーリーは突然に ~

僕のドラッカーへの愛は、突然に、予期せず、簡単に始まった ー 恋に落ちるとはそういうものだ・・・

 

書いてすぐ種あかしをするほど無粋なものはありませんが、上記の言葉は、ピーター・F・ドラッカー「日本美術へのラブレター」(1991、松尾知子訳、『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画』2015、所収)という文章へのオマージュです。

 

私の日本美術への愛は、突然に、予期せず、簡単に始まった ー 恋に落ちるとはそういうものだ。しかし、そうした多くの恋とちがうのは、私の日本美術に寄せる愛は、あの最初の瞬間からずっと続いているということだ。

 

2015年、ふとしたきっかけで「ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画」という展覧会を訪問しました。

ドラッカーという名前は知っていました。高名な経営学者であり、著書も数冊「積ん読」したこともありました。また『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』という書籍が、数年前のベストセラーとなり、映画化されたことも知ってはいました。

しかし、ドラッカーが日本の水墨画の高名なコレクターであることは、知りませんでした。

ドラッカーは概要を知っている程度。水墨画もそれほどファンであったわけではありません。

それなのに、なぜか、なんとなく、この展覧会を訪問したのです。

 

水墨画について詳しくないので、絵の横に掲示してある説明文を読み読み、絵画観賞を続けました。

そんな中で、ある説明文に目が止まりました。

 

西洋の風景画は眺めるためのもので全てを外に閉め出す額縁の中にあります。観る人は、風景の外側にいてけっして中には入れません。

中国の山水画も、何物をもその中に入れようとはしません。観る者に対して閉ざされています。いわば観る人は人間世界に在り、山水は自然にあるのです。その意味では、中国の山水画には全く入ることができないのです。しかし、日本の山水画は、観る者を招き入れます。それどころか、むしろ入ることを望んでいて、そこにはつねに観る者の場所が用意され、身を委ねるほど、ますます深くその世界に入り込むことを可能としています。やがて、突然、そこからもう出られないことに気づきます。観る者は画の一部分に同化しているのです。

(ピーター・F・ドラッカー「講演録 ガイジンの見た日本美術」1990/10/13、根津美術館

 

上記の文章を読んだ瞬間、胸の高鳴りが抑えられなかったです。

胸が高鳴った理由は思い当たりませんでした。

 

展覧会から帰宅し、「積ん読」だったドラッカーの書籍や解説書を再読しました。

目から鱗が落ちました。

例えばこんな文章にです。

 

ドラッカーは、日本画が描いているものはモノではなく「空間」であり、日本画では先に「空間」を見てから線を見ていると見抜きました。そして「空間」を見ることが、日本の美意識の根源にはあると結論づけました。

(中略)

日本は、大化の改新で中国の文化を移入し、明治維新で欧米の文化を移入していました。しかし日本は、日本固有の文化やアイデンティティを失うことなく、バランスをとった形で異文化を吸収していました。これを知ったドラッカーは「日本人は、ものごとの本質を因果ではなく、形態としてとらえる能力を持っている」ことに気づくことになるのです。

(上田惇生『100分de名著 ドラッカー『マネジメント』』NHK出版、2011)

 

モノではなく「空間」を見ること。

ものごとの本質を、因果ではなく、形態としてとらえること。

 

ドラッカーの言葉が、僕にとって「コペルニクス的転回」のように、強く、激しく、迫ってきたのです。

 

(つづく)

 

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