思い出の一皿 ~ 「コート・ドール」の季節野菜のエチュベ ~
13年の時を経ても、その時味わった感動が色褪せることのない美味があります。
一見ありふれたもののようではあるが、いったん口にするとその鋭さに圧倒される。本当にいいものはなんでもないように普通の顔をしていて無駄がない。こんなのが、僕の理想形です。だから、そういった意味では、このエチュベは理想形の代表格のようなものです。そして、こんなありふれたような料理にこそ、五感をとぎすましてのぞまなければ、本当にありふれた料理になりかねません。
(斉須政雄『十皿の料理』)
東京・三田のフランス料理店「コート・ドール」
そのスペシャリテである「季節野菜のエチュベ」が、僕にとって未だその感動が色褪せることのない美味です。
僕の人生で最も感銘を受けた料理です。
誰にも言いはしませんでしたが、この素敵な料理を持って帰るという自分の意志でした。鍋に込めて、いつも忘れない、自分自身の励ましとしての存在でもあったのでした。ヴィヴァロワで覚え、斉須の色をつけ、何度も何度も作りかえて、試して、いつも鍋にありました。
エチュベの鍋を見ながら日本に帰るんだといつも思っていました。
日本に帰ってからはエチュベの鍋を見ながらフランスを思いました。
このエチュベの鍋が僕のまわりから消えたのは、パリから日本に帰ってくる飛行機の中だけ、といったら大袈裟かもしれないけれど、ほとんどそんな具合で、僕に寄り添っていつも在るんです。
だってね、素敵なんです。
あの店のあのエチュベを知っている人は、きっと誰だってこういうと思う。
「洒落ているってこういうことなんだよね。野菜だけなのに、こんなに旨い、こんなに気品に満ちている」
オーナーシェフ斉須政雄の著書『十皿の料理』を再読する度に、あのときの感動が甦ります。
「本当にいいものはなんでもないように普通の顔をして無駄がない」の意味を、真に体得しました。
変な話ですが、食べ物から美味しさ以上に、感動・・・いや、ただ感動というよりは、エクスタシーを感じました。
そんな感覚に襲われたのは、この時と香港・九龍の「福臨門」でフカヒレ食べたときだけだなあ。
感動の余韻が、寄せては返す波のように、翌日まで間欠的に続いたのには驚きました。
思えば、今を去ること23年前。何気なく『十皿の料理』を買って、むさぼり読みました。
いつしか、斉須政雄の世界に引き込まれていました。
この店で働きたいなあと思いました。この店なら、僕を生かして伸ばしてくれるかもしれない。僕の勘は当たっていた。なんにも知らない僕に、料理だけでなく、料理というフィルターを通して、世の中で守るべきこと、やらねばならないこと、礼儀作法を教えてくれた。
ムッシュ・ペローの目は、奥さんや子供を見るときも、新米の僕や仲間たちを見るときも、野菜や魚を見るときも、花や鳥を見るときも、いつも同じでした。すべてに対して優しさに満ちていた。能く考えて、僕等のために、野菜のために、善い指導をしてくれた。
若い頃、夢ばかり追いかけていた僕にとって、いつか「僕を生かして伸ばしてくれる」環境に辿り着くことができるかも?と一筋の光を感じる文章でした。
今は、別の読み方ができます。
斉須さんが「置かれた場所」(渡辺和子)で努力し続け、自らを鍛え、物を見る目が養われたからこそ、「この店で働きたい」と思ったお店で自らを花開かせることができたのだと思います。
「人間は自分自身の絵を描く画家である」(アルフレッド・アドラー)。
とはいえ、出会いは一期一会。
自助努力も大事ですが、自分と環境のマッチングも同様に大事だと、苦労を重ねたこの年齢になって、痛切に思います。
殻を破るような飛躍的成長のためには、自分の思いだけでも、環境の素晴らしさだけでも、足りないのです。
「啐啄の機」という言葉があるように、互いのタイミングも重要だと思います。
しかし、そんな一期一会のタイミングを見はからう眼力を養うのは、自己陶冶し、感性を養うことしか王道はないことも事実ですね。
ムッシュ・ペローは、能く考えることは、よりよい結果を生むきっかけになるといつも言っていました。
僕はエチュベの鍋にその言葉を閉じ込めて、逃げ出さないようにがっちりと封をして、作って帰ってきました。
僕は幸せ者です。フランスにいる間、ムッシュ・ペローに、ベルナールのファミリーに、仲間たちに支えられ、一人前になれよと育ててもらいました。だから、とても、この野菜のエチュベが好きです。
旨くなれ、旨くなれと育ててもらった自分を見るようです。
そんな斉須さんの文章を読む僕もまた、幸せ者です。
こんなに素敵な文章を読むことができ、実際に「コート・ドール」で「季節野菜のエチュベ」を味わい、今でも舌に感じた感動の記憶から、斉須さんの経験や苦心や試行錯誤の連続を、追体験することができる幸せ。
そして、このブログの執筆のため『十皿の料理』を再読するうちに、自分の若き日の苦い経験と、文章から滲み出る斉須さんの経験と、あのときの美味とが、僕の中で混然一体となり、いつしか涙が止まらなくなる・・・。
僕は、この料理を作るとき、いつも、将来を夢見ながら集団就職列車に乗っているたくさんの若い人と、フランスで頼りない思いをしていた頃の自分とを思い重ねてしまいます。ぴょこぴょこ頭を揃えたそこらへんにあるなんでもない野菜が、作り手の力量次第で上等な料理にもなれば、つまらない料理にもなる。受け入れる社会がどういうふうに扱うかで、野菜の運命はそこで決まるんです。皿にのったときにただのごった煮になるか、フランスにも日本の漬けもののようなものがあったんだねと驚いてもらえるようなものになるか、作り手次第なんです。
金の卵にするか、ふみにじるか。
この料理は、現社会の反映のようなものだと、僕は思います。
最近、僕も年齢のせいか、この本を読んで新たな思いが芽生えてきました。
「ムッシュ・ペローや斉須さんのように、自分が学び、経験し、試行錯誤してきたことを、世の中に返さなくては」という思いです。
まだまだ学ばなくてはならないことは多いですが、世のため人のために貢献する自分でありたい。
そんな気づきを得ました。
こんな得難い経験や気づきをさせてくれる本は、なかなか他にはありません。
ところで・・・。
若き日から、ずっと憧れだった「コート・ドール」
今から13年前に、念願だった初めての訪問をしました。
ボロボロになった『十皿の料理』を持参し、斉須さんにサインして頂きました。
その後「コート・ドール」を再訪できなかったのは残念だけど、「コート・ドール」や斉須政雄の著書について語り合える得難い友人たちと出会うことができました。嬉しい。
それはきっと、食べ手に「コート・ドール」の料理がもたらす余韻が消えることがないから、その感動を知る者たちを引き合わせるのではないでしょうか。
なぜか、ふと、小学生の頃に覚えた「万有引力とは、引き合う孤独の力である」って、谷川俊太郎の詩の一片を思い出しました。
万有引力とは
引き合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
(谷川俊太郎「二十億光年の孤独」)
感動もまた、引き合う孤独の力なのかも知れませんね。
いや、おそらくそうでしょう。
きっとそのはずです。
理想を現実とする日を信じて生きてきました。多くの人の好意に支えられて、ここまでやって来られた。季節ごとに移り変わる食材の無心の輝きは愛しくまぶしくて、遠い日に社会に一歩を踏み出した頃の自分とだぶってみえます。泣いた日には、明日こそと思った。そして、今日、念願の本ができた。嬉しい。
このような率直で飾らない文章を書く、斉須さんの作る料理。
そこには、人の心を強く揺り動かす誠実さや愛しさが込められています。
だから、野菜のエチュベを食べに、「コート・ドール」へ必ずまた行こう!
最後に、僕が「コート・ドール」を訪問した際に、斉須さんから直接頂いた言葉をご紹介します。
今でも僕の座右の銘の一つです。
人に出来たら
あんたも出来るよ。
母からよく言われ、これを信じてやってきました。
(斉須政雄)