ポンちゃんの「本好きのささやかな愉しみ」

日々のささやかな愉しみの備忘録です。

ドラッカーへのラブレター(その2) ~ 全体は部分の和にあらず ~

ドラッカーは「日本人は、物事の本質は因果ではなく、形態としてとらえる能力を持っている」ことに気づくことになるのです。

(上田惇生『100分de名著 ドラッカー『マネジメント』』NHK出版、2011)

 

ドラッカーへのラブレター(その1) ~ ラブストーリーは突然に ~」で、上記の文章を引用し、ドラッカーが日本人を「物事の本質」を「形態」としてとらえる能力をもっていることを示唆しました。

 

では、「物事の本質」を「形態」としてとらえることとは、どのようなことでしょうか?

 

その意味をつかむために、一本の補助線を引く必要があります。

補助線とは、心理学の知識です。

そして「形態」とは、心理学用語です。

心理学に詳しい方は、ここでピンと来たかもしれません。

「形態」とは、ドイツ語の"Gestalt"の日本語訳のことです。

そうです。「形態」とは、ゲシュタルト心理学の「ゲシュタルト」のことだったのです。

 

ドイツではヴェルトハイマー(Wertheimer,M:1880-1943)、ケーラー(Kohler,W:1887-1967)、コフカ(Koffka,K:1886-1941)らが、心理現象の全体性を重視し、心を構成要素の複合体と考えるヴントの構成主義を批判した。すなわち彼らは、心理現象全体がもつ特性はそれを構成する要素に還元することはできないので、1つのまとまりとしてその全体をそのまま研究すべきだと主張した。そのような1つのまとまりのことをドイツ語では形態(ゲシュタルト;Gestalt)という。このため彼らが提唱した心理学は、ゲシュタルト心理学と呼ばれている。

(森敏昭「コラム1-1 心理学の源流」、無藤隆・森敏昭・遠藤由美・玉瀬耕治『心理学』有斐閣、2004)

 

上記の引用に記載があるように、ゲシュタルト心理学は、そもそもヴントの構成主義のアンチテーゼとしての意味合いを持っていました。

ヴントの構成主義は「心理学の源流」というべき学問であり、心理学以前に心について研究した宗教や哲学と比べ、自らの態度を「科学的」であると基礎づけたものでした。

ちなみに、ここでの「科学的」とは、実験結果とその分析により、心の成立について科学的に説明できるとする態度のことです。

 

「心の科学」としての心理学の創始者はヴント(Wundt,W:1832-1920)だと見なされている。それは、ヴントが1879年にドイツのライプチヒ大学で世界で最初に心理学の実験室を設けたからである。ヴントはよく訓練された実験参加者に、自分自身の意識の内容を観察・報告させる内観法(introspection)と呼ばれる方法を用いて、厳密に統制された条件下での意識の分析を行った。そして、意識の構成要素は純粋感覚と単純感情であり、それらの複合体として意識の成り立ちを説明できると考えた。つまり、さまざまな物質の成り立ちを分子や原子の複合体として説明する自然科学(化学)の方法を、心理学にも適用しようとしたのである。これは構成主義(structuralism)と呼ばれる考え方であり、このような考え方に基づくヴントの心理学は構成心理学と呼ばれている。

 

構成主義は、そもそも自然科学(化学)の方法論を、心の研究にパラフレーズしたものでした。

あたかも、研究所の静謐で清潔な研究室で、フラスコやビーカーの中の化学物質を、混ぜ合わせたり、顕微鏡で注視するかのように。

よく訓練された実験参加者により観察・報告された断片的結果の総和が、意識の成り立ちと等しいと考えたのが、ヴントでした。

 

断片的結果の総和、つまり「全体は部分の和である」という考え方は、「因果関係」と「定量化」という二種類の概念によるものです。それは、自然現象を数式によって説明できるとした「科学的」な態度の賜物であります。そして、そのような態度を基礎づけた基本思想こそが、17世紀の哲学者ルネ・デカルトの近代合理主義だったのです。

 

「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」

 

デカルトの合理主義は、人間のクリアな意識による論理性を前提とした思想です。

合理主義によると、因果関係や定量化を超えた直感的・神秘的・宗教的な現象は、非科学的なものと退けられるべきであり、科学的態度によって啓蒙されるべきだったのです。

 

世界は広大であって複雑である。しかしそこには、何か秩序があって目的があるかのようである。しかも変化し、変化したものは元に戻らない。諸行無常は、日本人にとっては真理どころか常識である。かつ、出鱈目さ、すなわちエントロピーは増大してやまない。

その世界を暗黒として見、いささかなりとも、これを論理によって解明しようとした哲学者がデカルトであり、近代合理主義としてのモダンだった。そこから、その後の科学技術の進歩が生まれた。技術としてのテクネに体系としてのロジーが加わってテクノロジーとなり、イギリスに工具製作者が生まれ、実用蒸気機関と産業革命が可能となった。

デカルトのモダンは、意味あるものは因果関係と定量化であるとした。科学は因果についての知識であり、意味あるものは量であるとした。全体は部分の和であり、それどころか部分によって規定されるとした。このデカルトのモダンが、三五〇年間西洋を風靡し、世界を支配した。心底信じた哲学者はわずかだったが、モダンと呼ばれることになった時代の世界観は、デカルトのものだった。

上田惇生『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』ダイヤモンド社、2006)

 

 

上記のような合理主義と科学的世界観により、人間の意識や感情についても、化学と同様「科学的」に分析できるとしたのが、構成主義の考え方の基本です。

 

しかし、ゲシュタルト心理学では、合理主義と科学的世界観に基礎づけられた構成主義を真正面から批判します。

ゲシュタルト心理学でいう「形態(ゲシュタルト)」は、部分間の因果関係と定量化によって説明し切れるものではありません。あたかも美しいメロディが、一つ一つの音符という要素に還元しても、その因果関係が「科学的に」説明できないように。

 

形態(ゲシュタルト)とは、部分の和=全体という因果関係や定量化で決してとらえることのできない、予測不可能なカオスだといえます。

 

ゲシュタルト心理学に先駆け、既に19世紀末から20世紀初頭にかけて、数学者アンリ・ポアンカレ位相幾何学トポロジー)について言及しています。また、合理主義と科学的世界観がもたらす「真」という価値観についても、次のように批判しています。

 

すべてを疑うか、すべてを信じるかは、二つとも都合の良い解決法である。どちらでも我々は反省しないですむからである。

 

経験はどの幾何学が最も真であるかを認識させはしないが、どれが最も便利であるかを認めさせる。

ポアンカレ『科学と仮説』河野伊三郎訳、岩波書店、1959)

 

ちなみに、1980年代の現代思想ブームの末期にかろうじて匂いを嗅いだ僕にとって、トポロジーといえば、浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)の表紙に描かれた「クラインの壺」のイメージです。

 

クラインの壺》は外部を持たない、というよりも外部がそのまま内部になっているのであり、内外の境界【フロンティア】に定位して内部の秩序と外部の混沌との相互作用をクローズ・アップしようという構えを、最初から受けつけないのである。

 

む、む、難しい。。。

何を言いたいのか、雰囲気は分かるものの論理的にはよくわからん(笑)

それこそが、浅田彰の目指した「テクストの快楽」(ロラン・バルト)なのか??? 

 

それはともかく、ゲシュタルト心理学ポアンカレ位相幾何学トポロジー)を通じて、19世紀末から20世紀前半にかけて、合理主義や科学的世界観を乗り越えようとする思想的動きがあったことがわかります。

20世紀前半に学問の道を歩み始め、読書の虫として学生時代を過ごしたドラッカーにとって、そのような思想は非常に刺激的だったと推察できます。

 

(つづく)

 

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