ポンちゃんの「本好きのささやかな愉しみ」

日々のささやかな愉しみの備忘録です。

依存から自己受容へ ~ 野口嘉則氏のブログより ~

先日、プロコーチの野口嘉則氏のブログより「高揚感をもたらすものへ依存したくなる心理」という記事を読み、気付きを得ました。

 

そして、自分が最近模索していたことが、野口氏の記事に書いてある内容に即していたと、思いました。

 

高揚感をもたらすものへ依存したくなる心理」

 

僕の心もかつてそうでした。

遊びを「楽しむ」ではなく、その「高揚感」に依存し、自らの内面と向き合うのを避けていました。

「高揚感をもたらすもの」は祝祭であり、非日常の営みです。しかし、それを「日常」にすることを目指すと、それは依存症かも知れないと思いました。

 

覚醒剤や大麻は、
高揚感や多幸感をもたらすのだそうですが、

これらへの依存状態になってしまう人が、
なぜ成功した芸能人に多いのでしょうか。

そして、
違法薬物に手を出すことはないにしても、

高揚感をもたらすものへの依存状態に
なってしまうケースは、
僕たちの周りにもよく見られますし、

僕たち自身も、大なり小なり、
そのリスクを抱えています。

 

僕はある日、非日常の営みを「日常」にするのではなく、日常を「ワクワクドキドキ」させようと心に決めました。

 

「いまの自分は「高揚感」依存症だ。依存を絶たなければ、心の平安を得ることができない」

 

祝祭を素直に楽しめる人は、楽しめば良いと思います。

けれど、自分はそうではない・・・

「高揚感」に浸った翌日の落ち込みを重ねる度に、言いようのないモヤモヤが心に積み重なっていました。そんな精神の乱高下を繰り返す自分は、祝祭を楽しめていないと思いました。

 

漠然とした不安。

恐れ。

不確かな気持ち。

現実逃避。

寂しさ。

神経過敏。

失意。

絶望。

他人を気にしすぎる。

 

自分は、それらの感情をコントロールできず、感情のとりこになっている・・・

 

言葉にできないもやもやは、不良債権のように自分の心を苛み、より強い「高揚感」を求めるという悪循環をもたらしました。

 

マイケル(・ジャクソン)やエルビス(・プレスリー)やマリリン・モンローの場合は、
薬物依存でしたが、

万能感やハイテンション(高揚感)を維持しようとする
心理から、

薬物の他に、次のようなものへの依存症になってしまう
場合があるわけです。

・恋愛依存
 (家庭をもっていながら不倫をやめられない、等)
・セックス依存
・過度の飲酒(=アルコール依存)
・ギャンブル依存
・浪費癖(買い物依存)
・仕事への過度の没頭(=ワーカホリック)
・自分が賞賛を浴びることへの依存

これらのものに依存し、
万能感や高揚感を維持することによって、

思いどおりにならない現実や自分の弱さに直面するのを
避けているわけです。

 

だから、「つまらない」日常を淡々と生きないように、仕事にド真剣に、集中して取り組もうと決めました。

「俺が面白くしないで、誰がする?」って気概を持って、取り組もうと決めました。

そのように意識を変えると、やがて「つまらない」はずの日常に、トキメキが産まれました。

結果は・・・、問いません。

真摯に取り組む。そして、そのプロセスと結果を、自己評価抜きに、ただ見つめる。

それだけで良いと思っています。

 

そして、そのような依存状態にならないためには、

思いどおりにならない現実や
自らの弱さ・不完全さを
十分に受け容れることができるだけの

しっかりした心の器(精神的な基盤)を
確立することが大切です。


万能でない自分、
失敗もする自分、
かっこ悪いところもある自分 なども含めて、

等身大の自分をありのままに受け容れるだけの
「自己受容力」を養う必要があるのです。

 

もちろん、非日常の営みは祝祭だから、日常を忘れて楽しむよう心がけています。

遊びで「高揚感」を味わうこと自体は、悪いことではないからです。

でも、それは日常を味わい尽くすからこその、非日常ですし祝祭だと思います。

非日常の祝祭は人生のスパイス。

祝祭のために日常がある、という考えを捨てたら、なぜか気持ちが楽になりました。

日曜日の夜に感じていた不安や焦りが消えました。

それは、僕にとっての「コペルニクス的転回」でした。

 

 

高揚感をもたらすものに依存したくなる心理