ポンちゃんの「本好きのささやかな愉しみ」

日々のささやかな愉しみの備忘録です。

大好きなブログ ~「うちこのヨガ日記」 ~

最近、ヨーガをはじめました。

いいですね。ヨーガ。

呼吸法やアーサナをすることで、気持ちが落ち着きます。

 

ヨーガは、今までもはじめては挫折し、またはじめては挫折し・・・の繰り返しでした。永遠の初心者です。

「趣味は三日坊主」というほど飽きっぽい性格なのですが、今回はしばらく続けることができそうです。

 

さて、ヨーガに興味を持つきっかけの一つとなったブログがあります。

ヨガ業界の方なら「知る人ぞ知る」ブログらしいですが、僕は業界人ではないので知りませんでした。

 

d.hatena.ne.jp

 

とにかく僕にはめちゃめちゃ興味深かったです。

ヨーガの先生のブログなので、感覚的表現や神秘的表現に満ちているのかと思いきや・・・

めちゃめちゃロジカル。

本の紹介のコメントが鋭い。

それでいて、自己のロジックの中に閉じず、アナロジーな表現を駆使し鮮やかなイメージを喚起してくれるところに、特に唸らされます。

 

僕が唸ったのは、例えばこんな表現にです。

 

以下は、全体の中では目立たないけど、とても貴重なコメントと思いました。

修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。

 どうとでもとれる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。

「どうとでもとれる玉虫色の解釈」への指摘。「なんとなくシャンティ」って言っているだけの状態はリアライゼーションの対極にあり、プラクティカルではないから身に付くと思えないのです。「あのときの、あのシャンティ」「どこかで感じたことのある、いま、このシャンティ」を見つめないと。ここは、あえて捉えにいくところです。これと執着の区別がつかないと、「瞑想ってよくわからない」ということになると思う。というのをわたしも断定的に書いてみた。(「〔本の紹介〕修業論 内田樹著」

 

もう、「イイネ」でも「ガッテン」でも何でもいいけど、ボタンを「16連射」したい欲望に駆られるほど、素敵な必殺フレーズの連打。

「なんとなくシャンティ」は「プラクティカルではない」。はたまた「これと執着の区別がつかないと、『瞑想ってよくわからない』」など、うちこ師の必殺フレーズに萌えます♪

そ~なんだよな。若手の頃って「どうとでもとれる玉虫色の解釈」をする方が良いって思ってたふしがある。自分の考えはあっても、長いものには巻かれろ式にエラい人の尻馬に乗っといた方が、利口だって思ってたふしもある。

でもそ~じゃないんだなあ。。。

「私はこう解釈した」ってことを、Show The Flagじゃないけど、ハッキリ意思表示できる自分であることって、すごく大切。

だからって、いつでもどんな時でもShow The Flagしてたら身が持たない。

じゃなくて、その時点で適切だと思った解釈を断定した上で、Show The Flagしたり、できるけどあえてしなかったり、臨機応変に使い分けることも大切。

それにしても、解釈を断定することと、執着との差異。これが分かるまで僕は20年かかりました(笑) 

それまでは、いくら集中しようと頑張っても、雑念妄念が迸りまくっていました。その理由が、うちこ師のブログを読んでやっとわかった次第です。

 

他にも唸ったフレーズ連打だけど、特に唸りまくったフレーズと言えば。

 

もうひとつ、

「鍛える」というのはハードディスクの容量を増やすことであり、「潜在的な能力を開花させる」というのはOSをヴァージョンアップすることである。

という説明も、たまらん~。ヨーガではこれに加えてviveka(識別)の能力が開花するというのが「いいCPU積んでる」という感覚に近いです。「〔本の紹介〕修業論 内田樹著」

 

鍛えるっていうと、ついついハードディスクの容量を増やすがごとく、量にこだわってしまいがち。でも、修業ってのはそれだけじゃない。

CPUの交換(CeleronPentiumに?)とか、メモリの増設(4GBを8GBへ?16GBへ?)とか 、はたまたOSのヴァージョンアップとか(Windows7をWin10へ?)とか・・・

鍛えれば鍛えただけプロセスがすべて身になると限らないのが、修業なんですよね。

鍛錬も大事だけど、ポリシーの正しさや視点の変化や心の持ちようも、とても大事。

関係あるか分からないけど、清原はハードディスクの容量を増やすことばかりにこだわりすぎて、その他の修業に向ける視点が欠落してたのかな?と思ったりもしました。

 

「額縁」に救われ、「額縁」に縛られる の章も、とても大切なことを語っている内容でした。

「気が狂う」ことを回避している代償を、私たちは別のかたちで支払ってもいる。

森博嗣さんが同じことを語るとちょっとおしゃれな感じがするのに、内田樹さんが書くと汗臭くヨーガっぽい感じになるのはなぜだろう。親近感沸くなぁもう(笑)。

ヨーガではこれを abhinivesha (つながりから離れることへの恐怖)というのだけど、事例が「肉体と魂が離れること=死の恐怖」とされることが多く、そのせいで深い話題に入っていけないことがほとんど。ヨーガも仏教も、「正常と言われている額縁から離れて見ること」に有効な技術として瞑想がある。「〔本の紹介〕修業論 内田樹著」

 

 

僕は産業カウンセラーの勉強をしたので、内田先生のいう「額縁」の意味はスンナリ分かります。

ここでいう「額縁」は、カウンセリング用語でいう「準拠枠」(frame of reference)のことです。そういえば額縁も英語で言えば"frame"ですね。

 

平木典子先生の著書より「準拠枠」の解説を引用します。

 

「準拠枠(問題枠)」というのは、少々わかりにくい言葉である。英語の frame of reference という言葉を訳したものだが、人間理解の基本となるので、この考え方の内容を理解してもらうため、あえて使うこととした。

人間は言葉を使って、さまざまな考え方や複雑な感情を表現することができるが、表現したり、お互いを理解し合ったりするためには、その拠りどころとなるものが必要である。それを「準拠枠」と考えればよい。

たとえば、気分が悪いときとかおなかが痛いとき、言葉のわからない赤ん坊は、全部「泣く」という信号で表現する。赤ん坊は、表現の拠りどころとなるものをそれほど多く持っていないからである。「痛さ」とか「不快な感じ」とかのさまざまな細かい感じを表現することができるようになるまでには、実は、人間はたくさんのことを体験し、その体験に匹敵する言葉を学び、体験と言葉を結びつけて表現している。それによって、たとえば、おなかの痛さも「シクシク痛む」とか「キリキリ痛む」とか細かく表現できるようになる。

いいかえれば、私たちの内面には体験を区別し、照らし合わせる照合枠のようなものが積み重ねられ、それが言葉になり、表現になっている。言葉に照合されるさまざまな体験がいろいろな枠組みをつくっており、それを使って、自分を表現し、相手に理解してもらおうとするのである。

(中略)

そこで、カウンセリングでは、クライエントが照合枠とか準拠枠、または問題枠で意味していることの理解を重視する。カウンセラーは相手が何と言っているかではなくて、何を言わんとしているかが理解できなければならない。逆にいうと、来談者の言った言葉を自分勝手に受け止めて、その人を理解した気になってはいけないのである。(平木典子『カウンセリングの話』朝日新聞出版、2004)

 

産業カウンセラーの講座では、指導者に「カウンセラーの準拠枠を押しつけている」とよく指摘され、夜はしばしば涙で枕を濡らしたものでした。

意識して準拠枠を外そうとしても、なかなか外れませんでした。

準拠枠を外すことの困難さは、準拠枠こそが自分の拠りどころであり、アイデンティティだからなんだと思います。

だからカウンセラーは、準拠枠を外そうとする前に、まず自分の拠りどころである準拠枠を意識し、相手の持っている準拠枠との違いを意識することが重要になりますね。

その一連のプロセスで、瞑想が大いに役に立つことは、うちこ師がおっしゃる通りですね。

 

うちこはよく職場で、コミュニケーションの場の構成展開や切り替えがおかしいときに、「もうここからは相手が主役になるところ。あなたが『それでは歌っていただきましょう~』とマイクを渡したあとの話。その歌がどうなろうが、案じてもしょうがないわけよ。でも歌っていただく前まではこっちでコントロールできるのだから、そのあとに『曲は、なになにです』とか、『今日も街でこれを口ずさむ人に出会いました』みたいにその前の装飾で工夫をしてください」というように、昔の歌番組司会の喩えを使う。

30代後半のOL仲間に「うちこさん、このシリアスな説教シーンで浜村淳のモノマネさりげなくいれれるのやめてください」と笑われたりするのですが(無意識にやってるみたい)、こういうことと本当に似ていると思う。(「コミュニケーションとヴィパッサナー~(「タントラへの道」より)」

 

僕もシリアスな説教シーンで、ふと例え話を使うのが常套手段なので、「その例えウケる~♪」って笑われたことあります。

だから、うちこ師が浜村淳のモノマネさりげなく(無意識に)入れられるって状況、容易に想像できます。

 

「これだけじゃ食えないからこれもしています」という人がヨガ講師の人には多いと思うのだけど、たまに「会社員の頃、○○な生活に疑問を感じて(否定表現で)、ヨガの世界へ」などとプロフィールに書いている人がいて、普通に「サラリーマンを下に見ながら暮らしているのだろうか」と不思議に思う。美容師さんでもそうだけど、別の仕事をしていてその世界に入った人は、なんとなく会話のスタンスがオープンで居心地がよかったりする。ヨガの先生で素敵と思う人にも同じようなことを感じる。

何かを悪者にしないとヨガを始められなかった人からは、ヨガを習いたくないなぁ。「コミュニケーションとヴィパッサナー~(「タントラへの道」より)」

 

実は、当初このブログのタイトルを「サラリーマンをなめんなよ」にしようと思っていました。僕は、サラリーマンの仕事を誇りに思っています。会社の看板を背負って、自分の力や同僚の力を使ったり使わなかったりして、組織を動かして何かを成し遂げるって、すごくワクワクドキドキします!

それって、うちこ師の言葉を借用すれば、とってもヨガなことだと思うんです。

アーサナをしたり、呼吸法をしたり、瞑想をしたりするのもヨーガ。その結果、すごいポーズができたり、サマーディーの境地に至ることは、とても素晴らしいこと。

でも、ヨーガを続けた結果、仕事をするのがワクワクドキドキするようになった、ってのも大切なことだと思うんですよ。

何かを悪者にして、心にディストピアを作るのがヨーガの効用じゃない・・・

イヤなことがあっても動じない平常心。

また、合気道塩田剛三さんの名文句のように、合気道の最強の技とは「自分を殺しに来た相手と友達になる」と言える感性。

ヨーガを通じてそんな力を育みたい。

僕はそう思います。

 

うちこ師のブログを読むことによる効用は、様々なイメージを心に喚起してくれることです。

今後も拝読します。そして、またこちらに感じたことを書きたいと思います。

 

www.amazon.co.jp

 

 

 

 

 

ふとしたきっかけでお会いしたご本人も、清冽なオーラを感じる素敵な方でした。