京都の古書店「アスタルテ書房」の思い出
金子國義画伯とは、一度お会いしたことがある。
京都新聞|私の好きな、ときどき嫌いな京・近江 - 画家 金子國義さん
20歳の頃、京都の三条御幸町辺りのマンションの一室にある古書店「アスタルテ書房」で古書をあさっていたある日のこと。
「アスタルテ書房」のご主人・佐々木一彌さんは、作家・澁澤龍彦やフランス文学者・生田耕作、そして金子画伯と交流が深かった趣味人。
店内には小唄のBGMが流れ、興が乗ると自ら三味線をつまびくという、独自のテイストに貫かれたサロンだった。
そこに金子画伯が登場。
ロマンスグレイが印象的で、ダンディでアーティスティックな雰囲気に、圧倒された。
その時は他にお客がいなかったので、金子画伯による澁澤龍彦の思い出に聞き惚れた。
至福の時間だった。
その時、金子画伯の挿画の入った、ジョルジュ・バタイユ著、生田耕作訳『マダム・エドワルダ』にサインをして頂いたのだが、度重なる引っ越しのどこかのタイミングで、なくなっていた。
惜しい。
現在古書店で購入すると、4~5,000円はするそうだ(笑)
「あたしのぼろぎれが見たい?」
両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女のほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は片脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろぎれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛤。
おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりかね」
「ほらね。あたしは《神様》よ・・・」
「おれは気でも狂ったのか・・・」
「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」
ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳『マダム・エドワルダ』(角川文庫、1976)
僕がまだ若かった頃、エロティシズムや異端の思想にこだわりをもっていた。
今は全くなくなったという訳ではないのだが、深い興味はない。
具体的には、文学ならマルキ・ド・サドとかバタイユとか澁澤龍彦とか、映画ならパゾリーニとかベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』とか神代辰巳とかもろもろ。
背徳のエロティシズムに思想の匂いを嗅ぎつけ、深い意味を求めて読み解こうとしていた。
例えばエドワルダのいう「《神様》」って何だろう?とか、なぜエドワルダは「見なくちゃ駄目。見て!」と言ったのか?とか。
今考えると、哲学者のバタイユならではの深い意味があるのかも知れないが、ポルノグラフィに深い意味を求めて読み解こうと思っていたのは、当時の僕がエロティシズムに過大な期待をしていたからに他ならないだろう。
とはいえ、バタイユのエロティシズム論には深みがある。
「エロティシズムは死にまで至る生の称揚である」とはバタイユの名言である。
岸田秀流に言えば、人間は「本能」が壊れた代わりにエロティシズムを持っている動物だ。
今の僕は、エロティシズムに過大な期待も、過小評価もしていない。
「本能」が壊れた人間に必要欠くべからざる人生の一部である。
金子國義画伯も、アスタルテ書房の佐々木さんも、昨年お亡くなりになった。
僕の青春の1頁。懐かしい思い出がまた一つ、去っていく。
甘酸っぱい記憶を僕に残して。