ポンちゃんの「本好きのささやかな愉しみ」

日々のささやかな愉しみの備忘録です。

「自己受容」と心理学 ~ 自分を許せば、他人も許せるようになる ~

前回のブログで「自己受容」について書きましたが、引き続き「自己受容」について、今回は切り口を変えて書いてみます。

 

カウンセリング心理学の第一人者として知られる國分康孝先生の名著『カウンセリングの技法』(誠信書房、1979)

久しぶりに読んだけど、目から鱗が落ちまくりました。

「國分節」としか言えない語り口で、カウンセリングの真髄を突く言葉の数々に、ただただ唸らされます。

今後もしばらく熟読玩味しますね。

 

人好きの人間とは、自分を好いている人間である。自己嫌悪の強い人は他者嫌悪も強い。人の好き嫌いの激しい人は自分への好き嫌いも激しいはずである。 

 

確かに、他人を嫌いやすい人は、実は深層心理で自分のことも嫌いなのかも知れません。

 

自分を好くとは自己受容のことである。あるがままの自分を受け入れることである。たとえば、ケチな自分をとがめているとケチな相手もとがめたくなる。ケチな自分を許すとケチな相手をも許せるようになる。

 

「ケチな自分を許すとケチな相手をも許せるようになる」ってベランメエが、國分先生の真骨頂ですね。完璧な人間なんているわけはない。ケチな人間の集団が人間社会だ、って諦観から、人類愛が始まるような気がします。

 

心の中で色情を起こしたものは姦淫したのと同じことだと考えるのは、自己受容の反対である。自己へのとがめがある。自己受容とは色情を起こして何が悪いか、と色情を起こした自分を認めてやることである。そのあと、しかしこれは表現(姦淫)してはまずいからと抑えるのである。そこには罪障感がない。それが自己受容である。人好きとは、このような自己受容の結果なのである。つまり、自分に対する態度と人に対する態度ととは相関があるということである。

 

「自己受容とは色情を起こして何が悪いか、と色情を起こした自分を認めてやることである。そのあと、しかしこれは表現(姦淫)してはまずいからと抑えるのである」という「國分節」には、思わず笑みがこぼれてしまいました。

例えば、好みの異性を想像して「モノにしたい!」と思ったり、イヤな奴を思い出して「死ねばいいのに!」って思ったりする突発的な感情を、いちいち責め苛んでいたら大変です。

心で思っても、実際に行動を起こさなければ良いのだ、と割り切ることが大事だと思います。 

 

自己受容とは、自身の劣等感に向き合い、それを許せるようになることです。

不完全な自分を必要以上に責めなくても良いでしょう。

不完全な他人を必要以上に責めなくても良いでしょう。

 

人間社会は、不完全な人間の集合体です。

時に憎しみ合い、時に傷つけあい、時に許し合い、みんな生きているのでしょうね。

 

 

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