ポンちゃんの「本好きのささやかな愉しみ」

日々のささやかな愉しみの備忘録です。

【創作】 今夜、ドラッカーとBARで ~ カクテルと見立てとイノベーション ~

飲食店を舞台に、学びの楽しみを物語で紹介するシリーズです。

達磨信「バランタイン17年ホテルバー物語」と、もちろんですが岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社、2013)へのオマージュです。

 

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「今夜、ドラッカーとBARで」

~ カクテルと見立てとイノベーション

 

作・写真 ポンちゃん

※この物語は、実在する飲食店および飲食店のスタッフ以外の登場人物はすべて架空であり、フィクションです。

 

折しも祇園祭の真っ只中。夏の一大行事を迎えた京都にやってきた。

京都にきたのは、旅行でなく仕事だ。

勤務先とコンサル契約している経営コンサルタントが、プライベートで京都旅行をされるというので、その旅行に同行せよとお達しがあったのだ。

経営コンサルタントはアメリカの高名な方らしく、通訳も同行されると聞いている。

ではなぜポンちゃんが同行するのか?

仕事は別として、社内でグルメとして名を響かせているから、美味しいお店を案内し、コンサルタントの先生の心証を良くしてほしい、ということらしいが、実際のところはよくわからない。

 

京都駅には、経営コンサルタントとの待ち合わせ時刻より、かなり早めに到着した。

久し振りの京都なので、いろいろと寄り道したい場所があったからだ。

四条通を歩いていると、祇園囃子がコンチキチンと鳴り響く。鉦と太鼓と笛の音のリズムの反復に、気分がなぜか高揚してきた。
時間は夕方の5時前。夏の京都はまだ日も高い。

経営コンサルタントから「食事の前にアペリティフが飲みたい」との要望があり、バーで午後5時に待ち合わせの予定としたのだった。

伺ったのは、バー〔ロッキングチェアー〕。周囲は商家ばかりの街並の一角に、目指すお店はあった。マスターお手製の木製の看板がなければ、バーとは分からない和の店構えである。

 

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店内に入ると、一転シックでオーセンティックなバーの雰囲気に包まれた。

 

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店内には薪ストーブがあり、店名の由来であるロッキングチェアがあり、町家らしく坪庭がある。

 

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テーブル席に着席した。

しばらくして、アポイントメントの5分前に、経営コンサルタントと通訳が到着した。

 

「はじめまして。○○社のポンちゃんと申します。本日は京都の夜をご案内させて頂きます。よろしくお願いします。世界的に著名なドラッカー先生と一夜をご一緒できることが、光栄です。一生の思い出になります」

 

「ピーター・ファーディナンドドラッカーです。こちらこそよろしく。バーで食前酒というから、オーセンティックなバーかな?いや、京都らしいお茶屋バーかな?と色々想像を巡らせていたのだが。想像は裏切られたよ」

 

「えっ、先生のご期待に沿えませんでしたか?」

 

「むしろその逆だ。町家・坪庭、といった日本文化と、バックバー・ロッキングチェアーといった西洋文化が、違和感なく融合している。素晴らしい空間デザインだよ」

 

ドラッカーを怒らせたら、帰社後上司に大目玉かな?いやいや社長の怒りを買ってクビかな?と、ポンちゃんは一瞬恐れを抱いた。が、すぐさまホッとした。

 

アペリティフには、ポンちゃんはモヒートを。

ポンちゃんは、マスターの坪倉健児さんと相談し、ドラッカーのために、さくらんぼ(佐藤錦)を用いた季節のフルーツのカクテルを注文した。

 

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「美味しい。そして、私の唱える『西洋の日本化』をふまえた美味しさだ」

 

「先生、『西洋の日本化』について、もう少し詳しくお聞かせ頂けますか?」

 

ドラッカーの表情が、一瞬まなじりを決したように思えた。しかし、すぐに元の柔和な表情に戻った。

 

「他から学んだテクノロジーや文化を、日本人は巧みに咀嚼し、消化し、我が物として血肉化する。それが『西洋の日本化』だ。その巧みさは、日本人特有の知覚の能力によるものだよ」

 

「日本人特有の知覚の能力・・・」

 

「つまり森羅万象、山川草木を、命あるものとしてとらえる能力のことだよ」

 

「命あるものとしてとらえる能力・・・」

 

ポンちゃん、ここが大事なポイントなんだ」

 

「大事なポイント・・・」

 

「例えば、私がいま飲んでいるラムベースのさくらんぼのカクテルだったら、カクテルブックのレシピの応用として、世界中探せば他にもあるだろう。しかし、そこにアメリカンチェリーではなく佐藤錦を用いて、甘みづけにシロップではなく和三盆を用いること。佐藤錦からは、季節感や東北のリージョナルな雰囲気を感じることができる。和三盆からは、茶道文化の伝統を感じることができる・・・」

 

「カクテルから、日本文化を感じさせるという見立て、ですか?」

 

「その通りだ。日本人特有の知覚の能力とは、見立てのことだよ」

 

「見立てとは、対象を他のものになぞらえて考えるという、日本文化特有の知覚のことですね。例えば、枯山水のお庭で、砂の模様を水の流れとして知覚すること・・・」

 

「そうだ!」

 

ドラッカーの表情が、再度まなじりを決したように思えた。そして、声のトーンが上がったのでビックリした。

 

枯山水はきらびやかな西洋の庭園と比べてはるかに狭い。この店の坪庭なんてさらに狭い。しかし、狭くてもそこには自然界全体や永遠が表現されているんだよ」

 

「確かに、西洋の庭園を見て美しいと感じます。しかし、見ていて落ち着くのは、心地良さを感じるのは、自分の場合は西洋庭園よりも、枯山水だったり、坪庭だったりします」

 

「それはポンちゃんに、そういう感覚を産み出す知覚が備わっているということだ。もちろん、きらびやかな西洋庭園の方に、心地良さを強く覚える人もいるかもしれないがね」

 

「趣味嗜好は、人それぞれということですね」

 

「せっかく美味しいカクテルを飲んでいるから、カクテルについて話をしようか。ポンちゃん、私の飲んでいるカクテルには液体が半分、空の部分が半分あるように見える。ポンちゃんには、このカクテルが『残り半分も』入っているように見えるかね?それとも『残りが半分しか』入っていないように見えるかね?さあ、どちらだろう?」

 

「スミマセン。先生のご案内を仰せつかったので、書籍を拝読したんです。だから先入観があって『残りが半分しか』入っていないとしか見えないんです」

 

「私の本(『P・F・ドラッカー経営論集』ダイヤモンド社、1998)を既に読んでいたんだね」

 

コップに半分入っているとコップが半分空であるとは、量的に同じである。だが、意味はまったく違う。世の中の認識が、半分入っているから半分空であるに変わるとき、大きなイノベーションの機会が生まれる。

 

「はい。そうです。書籍を読むまでは『コップが半分空』はネガティブ思考で、『コップに半分入っている』はポジティブ思考だから、自分もポジティブ思考になった方が良いと思い、そのように考えようとしていました。ですが、先生の文章を拝読し、目から鱗が落ちました。思考をポジティブにすることは大事です。確かに大事ですが、イノベーションを起こす行動を通じて自らを変えること、そして社会を変えることがもっと重要なのだと」

 

「関係ないけど、ポンちゃんの話を聞いたら、『自ら機会を作り出し 機会によって自らを変えよ』って、ファウンダー江副浩正によるリクルートの旧社訓を思い出したよ。私もポジティブ思考を否定しない。大切な考え方だと思う。しかし、ポジティブ思考だけだと、自己完結、自己満足、支配/服従など一方通行の人間関係に陥る危険があるのだよ。そこは慎重な自己分析が必要だ」

 

「なるほど。いかにも自信ありげな人の中でも、真の自信を持つ人と、こけおどしの人と、自己チューな人と、人それぞれな気がします」

 

「ポジティブ思考をすれば良いってものではない。ただのわがままになったら意味がない。まあ、その辺りは私の本だけでなく、スティーヴンのを読んでおけば良いかもしれんな」


「スティーヴンとは『7つの習慣』のコヴィー氏のことですか?」


「そうだ。スティーヴンのインサイド・アウトという考え方が、機会によって自らを変えるっていう自己啓発の原則を、上手にまとめている。知覚についての探究は私と共通点が多いが、スティーヴンの主張は、いま日本で流行のアドラーに近い。自己啓発的だ。私の基本姿勢はより『傍観者』的だ」


「内から外へ。他者を変える前に、まず自分が変わらなければならない・・・」


「カクテルの話に戻ろうか。君はボーヴォワールの『女ざかり』って小説を読んだことがあるかね?」

 

「はい。学生時代に読みました。サルトルが友人から、現象学だったらカクテルも哲学できるんだよ、って聞いて感動したってところは、なんとなく覚えています」

 

「ここにiPadがあるから、検索して読んでごらん」

 

レーモン・アロンはその年をベルリンのフランス学院で送り、歴史の論文を準備しながらフッサールを研究していた。アロンがパリに来た時、サルトルにその話をした。私たちは彼とモンパルナス街のベック・ド・ギャーズで一夕を過ごした。その店のスペシャリティーであるあんずのカクテルを注文した。アロンは自分のコップを指して、

「ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!」

サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。

それは彼が長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるままの事物を……そしてそれが哲学であることを彼は望んでいたのである。アロンは、現象学サルトルが終始考えている問題に正確に答えるものだといってサルトルを説き伏せた。つまりそれは彼の観念論とレアリスムとの対立を超越すること、それから、意識の絶対性とわれわれに示されるままの世界の現存とを両方同時に肯定するという彼の関心をみたすのだとアロンは説得したのであった。

 

サルトルは、カクテルも哲学できるってことを知って、感動したんですね」

 

「その通り。いま私が飲んでいるカクテルを、現象学的に考察することもできるんだよ」

 

「カクテルをどのように哲学するかは、まったく知らないのですが・・・」

 

現象学とは、知覚についての考察を通じて物事の本質を探究する哲学だ。例えば、ここにあるオレンジ色のカクテルは1杯いくらするか知らないけど、千円以下ということはないはずだ。それに対して、もしカラオケボックスでラムとアメリカンチェリーとガムシロップを使った似たようなオレンジ色のカクテルがあったとしても、どう高く見積もっても千円以上ということはない。グラスに入った類似成分のオレンジ色をした2つの液体、しかもどちらも分類からすればカクテルだ。どちらが高いか安いかなんて、そのものだけを比べたら判断がつくかい?判断のためには、飲む場所だったり、作り手だったり、顧客の見立ての能力だったり、実際の液体の成分だけではなく、多種多様な知覚の統合として決定づけられる。現象学以前の哲学は、近代西洋の主客二元論の世界観を基礎とし、対象の観察者の純粋な観察と分析の循環を前提としたが、そこに現象学は知覚という補助線を引いて、純粋な観察と分析という考え方はフィクションであると喝破したんだ。つまり、高級なバーだったらオレンジ色の液体にいくら支払う、カラオケボックスだったらオレンジ色の液体にいくら支払う、という判断には、論理的に考えると飛躍がつきものだ。だから、人間は統合的な暗黙知のスイッチのON/OFFを無限に繰り返すことで、因果関係や定量化を主とした論理性だけで判断できない事柄でも、統合的な知覚によって判断しているんだよ」

 

「スミマセン。かなり難しい話になってきましたね」

 

「すまんすまん。若い頃哲学に凝ったことがあって、ついつい話に熱が入ってしまった。分かりやすく言うと、グラスに入ったオレンジ色の液体を、色つきの砂糖水でも、バヤリースのオレンジジュースでもなく、米屋のプラッシーでもなく、カクテルと認識するために、人は論理だけではなく知覚を主に用いているんだよ」

 

バヤリースとかプラッシーとか、ジュースの種類まで、日本におられないのにマニアックに詳しいですね」

 

「ここ40年間、毎年来日してるもんでね・・・。それはともかく、しかも、さっき言ったように、カクテルといっても色々ある。最近はノンアルコールカクテルなんてものもある。ではノンアルコールカクテルと、色つきの砂糖水の違いって何だろう?」

 

「そういえば、色つきの砂糖水って言ったら貧乏くさいけど、ノンアルコールカクテルって言ったらオシャレな響きですね」

 

「ハハハ。そこが私のいうイノベーションの契機になるんだよ。色つきの砂糖水を売るために不足しているもの。それは君の言い方だとオシャレな響きなんだよ。『色つきの砂糖水』をノンアルコールカクテルにした人は、イノベーターだと思うよ。イノベーションとは、必ずしも新技術や新商品の開発を必要とはしない。飲み会でお酒が苦手だったり、自動車の運転でお酒が飲めない人に対して、ノンアルコールのオシャレな飲み物を提供すること。そのために『色つきの砂糖水』ではなく『ノンアルコールカクテル』と命名すること。そして、消費者の知覚を変容させること。それがイノベーションなんだよ」

 

ポンちゃんは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それはかれが長いあいだ望んでいたこととぴったりしていたのだったからだ。

 

「美味しいカクテルを友に楽しい話をしたら、空腹感を覚えたよ。さあ、次のお店で、何か美味しいものを食べさせておくれ。期待しているよ」

 

 

〔参考書籍〕

上田惇生『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』(ダイヤモンド社、2006)

木田元現象学』(岩波新書、1970)

シモーヌ・ド・ボーヴォワール朝吹登水子、二宮フサ訳『女ざかり 上・下』(紀伊國屋書店、1963)

 

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